フィル・コリンズのAnother day in paradiseという曲を初めて聞いたのは、学生の頃初めてインドを訪れた時のことだった。
国内線の飛行機に乗り込んだ時、なかなか出発しない機内で延々と流れていたメロディ(歌詞ナシ)がとても印象的だった。あまりにも気になって、この曲何ていうの?と、機内のスタッフに尋ねた。
少し寂し気な、きれいな曲調に惹かれて興味を持った曲だったが、後でその歌詞を調べて冒頭、まさかそんな内容だとは思わず驚いた。
以後、国内外でホームレスの人とすれ違ったり、直接物乞いを受けたりするとき、必ずこの曲が思い出される。そして、歌詞の中の「男」はいつも自分そのものだった。
「男」の心中
思えばNGOで仕事をしていた頃、車以外の移動は許可されなかったし、病院以外の世界と接触する機会はほぼ皆無だった。
車窓からホームレスの人を見かけることはあっても、物乞いの人に直接声を掛けられるという日常はかなり久しぶりのことだった。
コンゴに到着してから、物乞いの人に出会わない日はない。
子どもに声を掛けられるのも辛いけれど、大人の男性に「マダム、お腹がすいているんです」と切実な表情で訴えられることもあり、いたたまれない。
何度声を掛けられても、その対応に慣れることはなく、何もできずにただただ困惑する。そして私はDRCに到着してから1か月の間、毎度ぎこちなく挨拶だけをして通り過ぎ、彼らに何かを手渡すことはたったの一度もなかった。
「コンゴの悲劇から目を背けることは、共謀していることと同じです。」そんな風に世に訴えたDr.ムクウェゲの言葉に共感を覚えながら、目の前の出来事を直視できないのは当の私だった。
「毎回出会う物乞いの人に何かを渡していたらきりがない」「今日渡したら、次も渡さなければならないのでは?」「毎日通るこの道で、待ち伏せをされるかもしれない」…。
そんなことを考えながら、「この人のためにも、仕事を頑張ろう」と、それ以上気分が悪くならないように、話をすり替えた言葉で言い訳をして自分を納得させる。
「男」の革命
そんなことを繰り返していたある日。家から少し遠くのスーパーで買い物を済ませ、帰りのバイクタクシーに跨ろうとしていた時。私の元へ一人の少年が近づいてきた。
「マダム、お腹がすいて死にそうなんだ!そのパンひとかけらでも良いから、僕に分けて!」
はっきりと彼の言葉を耳にしながらも、ちょうどドライバーに行き先を説明していた場面。
面と向かわずに済んで助かったとでもいうかのように、私はいつものように挨拶だけをして走り去ろうとしていた。と、咄嗟に自分が今しがた店内で、珍しく封がされていない5.6本入りのフランスパンを買ったことを思いだした。
ここは家から離れているし、頻繁に来る場所ではない。
そして、袋を開封する手間もなく、彼にパンを手渡すことが出来る。行動に移すなら、今しかない!
「待って!」とドライバーに声を掛けて、取り出した1本のパンを少年に手渡した。彼はそれを受け取ると、挨拶をすることもなくその場を立ち去った。
代わりに、ドライバーが「merci」と呟いた。
あっという間の出来事だったけれど、ようやく気持ちを行動にすることが出来た帰り道。
ずっと頭でっかちで、できないと悩んでいたことだったけれど、実はこんなに簡単なことだったのだ、と思った。
「いつもしなければならない」と思うから、「いつも何もできない」。
そんなルールに縛られるのではなく、出来るときに応えることができれば良いのだ。
今しがた体得した自分のルールがストンと腑に落ちて、これからカバンにはいつもパンを入れて歩くことにしようか…等と考えていた。
ドライバーは何やらとても嬉しそうで、信号待ちで隣り合わせた他のドライバーに「この後ろの白いの(私のこと)がさ、さっき子供にパンをあげてさ・・・」なんて大声で宣伝するから、また別の人からも親指を立てながら「merci」と言われる。
彼らとて、もし私がパンを差し出せば喜んで受け取るほど、生活は楽ではないに違いない。
それでも、「あの子にあげたのなら、僕にも!」とはならず、「僕らの子供を助けてくれてありがとう」という意識がここの誰にも備わっている。
そんなことを感じて、そんなコンゴ人の新しい発見をすることが出来たことが嬉しかった。
立ち止まってみた「男」
話は変わって、それから数日後。子ども達を学校に送って行った帰り道でのこと。
歩いていとすれ違いざまに、一人の少年に声を掛けられた。
「助けて」とか、「お金をちょうだい」と言われることも多いけれど、彼もまた一言「お腹がすいているの」と言った。
外出時は盗難に遭わないよう、必要がなければ極力荷物は持ち歩かない。
学校の行き帰りは手ぶらのことが多く、その日も私のポケットにはスマホしか入っていなかった。今は本当に何も持ち合わせがないからと、私は挨拶だけをして歩調を変えることなく歩いていく。
彼が私の少し後ろを歩き始めたことが分かった時、「お腹がすいているの」という訴えに対するいつもの私の「bonjour」という苦し紛れの挨拶が、どれほどトンチンカンなものであるかの居心地の悪さに襲われる。
ストリートチルドレンの場合、5.6人のグループに声を掛けられることもしばしばだ。集団になると身の危険を感じることもあるけれど、彼は一人で、しかもまだごく幼かった。
不意に、私は立ち止まってみることにした。
立ち止まって、彼の話を聞いてみることにした。
何もしない罪悪感から目を背けるため、居心地の悪さと対峙しないようにするため、無視することはなかったにせよ、これまで声を掛けられて足を止めたことは一度もなかった。
「お腹がすいているの」とはひと言フランス語で言えたものの、彼はスワヒリ語しか話せなかった。
パパはどうしたの?ママは?と、質問は伝わったようだったけれど、彼の一生懸命に話す言葉は全く分からない。
それでも私は彼と向き合って、彼の話に耳を傾けることができたことがとても嬉しかった。
私の目を見て話してくれていたのが、途中から伏し目がちになったことで、彼の境遇がやはりとても厳しいものだということが見て取れる。
一通り話し終えると、彼は自ら去って行った。
彼と向き合った瞬間、先日のスーパーでの出来事と同じように、「どうしてこれまで一度もそうしなかったのか?」と感じた。
急いでいなければ、危険な場面でなければ、こうして足を止めることはやってみると難しいことではなかった。
「居心地が悪いけれど、立ち止まることはできない」と思い込んでいたけれど、立ち止まらないから、居心地が悪かったのだ。
足を止めること、耳を傾けること=何かをする義務が生じる、ということではなかった。
これまで何千回と遭遇してきた場面で、何千回と私がそうしてきたように、彼が他者から自分の言葉に耳を傾けてもらう機会は殆どないに違いない。
私も含めて、誰もが苦しんでいる人を見ると心が痛む。居心地の悪さと対峙しないで済むように、目を背けたくなる。聞こえないふりをしたくなる。
40年近く生きてきて、私はようやく歌詞の中の「男」がそのまま自分であるという居心地の悪さから、少しだけ自分を助け出す行動を起こしつつある。
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