初めての登校日。
1月になってしばらくして、クリスマスとNew Yearのホリデーが明けた。DRCで子供たちが通う学校は日本と同じように新年1月8日から始まった。私は現地でどの学校が良い学校かなんて見当がつくわけもなく、その日はHilaireが選んだ学校へ向け、家族4人+Hilaireの知人で連れ立って朝早くから出掛けた。
敷居の低すぎる、入学手続き
事前に何の予約やアポを取ることもなく、当日突然訪れて「今日から当校に通いたいのですが…」なんて、まるで習い事のような敷居の低さではないか。唐突に訪れたのは私達だけではなく、「ああ、登録ね」という感じで他の保護者・子供と共に手続きのオフィスに通され、ものの30分で学校に通う手続きが完了した。
しかし、そのお手軽さに反して中身は想像以上にシリアスだった。日本で通い慣れた保育園の延長のようなものを想像していた私達母娘はちょっと勘違いをしていたようだ。幼稚園に通った経験があればまだしも、保育園で自由奔放にさせてもらっていた二人は私以上に驚いていることだろう。各教室には机と椅子がずらり並んでいて、黒板まである。そこはまさに、「学校」だった。コンゴでのびのび子育ての予定が、 何やら図らずも「お勉強」の毎日が始まることになった。
とはいえ、ネイティブ関西弁の子供たちに成績を求めたり(DRCでは2~3歳の子どものクラスから、各学期に成績を付けるらしい)しないことは明らかで、DRCのカルチャー・他の子供達・言葉など、環境に馴染むことを学校に通う一番の目的とすることで私達も先生たちも一致していた。
ところで・・・考えてみれば日本での保育園生活にしても、時間の区切りがあり、朝の集い・合唱・工作・絵本・食事など一定の規律の中で集団行動をしていた。それが、机と椅子の並んでいる教室や制服によって、学校然として大きく異なって見えてしまう、ということはあるかもしれない。当たり前ではあるけれど、してはいけないことをすれば叱られるし、先生のお話に耳を傾けなければならないのはどこにおいても同じ。なので、多少自由度は制限される面はあるにせよ、実際のところはあまり日本の保育園と変わらないのではないか?というのが最終的な私の印象である。初日は申し込みと、教室の場所と担任の先生の確認、それぞれのサイズに合っているのだか合っていないのだか分からない、かなり適当なサイズの制服を支給してもらい、子供たちは翌日からクラスに入ることになった。
コンゴの学校の朝は早くて、どこの学校でもだいたい7時半に始まる。10時に軽食(給食・お弁当を選べる)の時間を挟んで、終わるのは12時。送り迎えは保護者か通学バスだ。こちらに引っ越してきて1か月ほど。子供たちは家の中や近所をちょろちょろするだけの生活にそろそろ飽きて、もう少し自分の世界を広げたいと感じていたに違いない。自然、早寝早起きになるし、学校がとても良い生活リズムになることを確信する。
予想外の初日
1月9日、いよいよクラスに入る初日。朝は6時前に起きて、シャワーと食事を済ませたら7時に出発。昨晩、私が慣れない手つきながらアイロンをかけた制服を着た二人は見違えるようにしゃんとして見えた。やっぱり、外見を整えることって大事なのかもしれない…と、普段自分の身づくろいに無頓着な私はちょっぴり反省する。
どこでもマイペースな次女・もー次郎はともかく、とんでもなくシャイで神経質な長女・あ太郎にとってどんな初日になるか、私は気が気でなかった。それでも、7時半に2人を学校に送り届けてから、MABADILIKOの仕事でバタバタとしていたので、その日もあっという間に迎えに行く時間になった。
Hilaireと連れ立って、最初にもー次郎の教室を覗いてみると、先生のお膝に乗って何やら居心地良さそうに寛いでいた。「やっぱり!」と思いながらも、私は甘え上手なもー次郎のくつろいだ様子にホッとする。担任の先生はひと言、「給食をよく食べていました」と言い、その他に何も伝えることはないと言うように、さよならと手を振った。続いてあ太郎を迎えに行こうとすると、もー次郎が「おしっこ!」というので、私はそれに付き合い、Hilaireが一人で行くことになる。
あの子は教室から泣いて出てくるのだろうか、母の元に一目散に走ってきて抱き付いてくるのだろうか…私の想像は決して楽観的なものにならない。ところが、もー次郎のトイレを終えて出てきた私の目に飛び込んできたのは満面の笑みのHilaireと、何の緊張もない、いつものようにフラフラと緊張感のかけらもない様子のあ太郎だった。私に一瞥をくれただけで素通りし、スタスタと門の方へ歩き出したあ太郎に心底拍子抜けしながら、Hilaireの方へ向き直る。「で、どんな様子だったの?」と聞くと、「ビックリした。窓から覗いたら他の女の子と二人で手遊びして盛り上がっていた。」「こんな初日は想像もしなかった」と、Hilaire。彼にしても興奮している様子が分かる。
子どもの適応力はすごいと話には聞いていたけれど、まさか初日からこんな光景を目にすることになるなんて。「咄嗟にスマホであ太郎の様子を録画しようとしたら、先生に声を掛けられて、チャンスを逃しちゃった。」と、ニコニコしているHilaireを恨めしく思いながら、私はあ太郎の後ろ姿に「良かったね!」と大きな声で声を掛けた。やっぱり、良かった。私も子供達も居心地の良い場所に来ることが出来て、良かった。居心地の良さとは物の豊かさや一般論や、何かの尺度やらによって測られるものではない。自分で見つけ、自分で感じるものだ。
徒歩通学の難
12月の末。家から学校まで歩くのに、子供の足でどれくらい掛かるかを予習するべく、家族で歩いてみたことがあった。大通りは交通量が多い上、歩道が狭い。通学を危ぶんでいたが、何のことはない、通りを一本内側へ入ると歩きやすい道が見つかった。のんびり歩いて片道30分。大人にはちょうどいい散歩になる距離、といったところだ。(と、思っていたけれど、子供たちを迎えに行くようになり、一人早足で歩いていくと10分足らずで到着してしまった。子アリ/ナシしでこんなにも差があるものかと驚いたが、おそらく距離的には1キロ前後と、小型犬の散歩にも物足りないような実際にはわずかな道のりと思われる。)
あ太郎は小さい頃からよく歩く子供で、歩くことに関してはあまり文句も言わず、大人が歩くだけチョコチョコついてくることが出来た。子どもと言うのはそういうものだと思っていたら、そんな考えは大間違いだということに、もー次郎が生まれて気づかされた。
彼女と散歩に出ると、ものの数分で「抱っこ」「疲れちゃった」「もう歩けない」が始まる。なので、母としてはいつも聞こえないふりをするか、疲れたと言う気を逸らすのに散歩を楽しむどころではなくなってしまう。案の定、もー次郎は通学路でもすぐに「もう歩けないの」と言い始め、Hilaireが仕方なく肩に担いで歩く羽目になる。
もー次郎は1歳の頃から、抱っこ紐のことを「どこでも」と呼んだ。(最初、「どこでも」が何を意味するのか私にはサッパリわからなかったが、姉・あ太郎が「抱っこ紐のことや」と、事も無げに言い放った。)どうやら、そこに収まっていれば「どこでも行けるから」が語源らしい。3歳を過ぎて、さすがにその「どこでも」を納戸へしまい込んだら、「ない!」「どこでもがない!」と大騒ぎで、もー次郎の「どこでも捜索」は1か月以上も続いた。そんな具合の子供なので、いつまでたっても性質はさほど変わりがない。
何はともあれ、日本からDRCと言う荒波に揉まれる環境に唐突に放り込まれた娘たちが、スタスタと学校に通う光景には彼女たちの底力・潜在力を感じずにはいられなかった。
後日談:二週目になって、朝起きると次女・もー次郎が「学校に行きたくないの」とぐずり始めた。何もかもが全てスムーズにいくなんていうことはないと心構えはしていたけれど、やっぱり泣くじゃくる子供を置いて離れる瞬間は辛い。でも、これはコンゴに限ったことではなく、日本でもあったこと。母と別れる際の号泣がその後5分も続かないことを、母は知っている。
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