以前書いたブログの中で、我が家には水道がないということをチラッと書いたが、どういうことなのか説明したい。現在賃貸で住んでいる家は大きなお宅の二階部分を借りているが、この二階部分まで水をくみ上げるシステムが整っていない。(くみ上げるシステムがあったとしても、トイレ以外、洗面台や炊事場などの水に関する設備は何一つ備わっていない。)
つまり、トイレの水も含めて、全ての水の供給を自分たちで賄っている。(家の敷地内に水道の出る水場があり、そこへ水を汲みに行く。主に家政婦・NANAが引き受けてくれているが、20リットルタンクを担いで毎朝何往復かして、家中のバケツを満タンにしてくれる。)
私達は本当はもっと少ない水で生活できる
朝起きてから夜寝るまでの間、水を必要とする場面がどれくらいあるか、日本で生活していた時に考えたことがあっただろうか。こうして水道のない、全ての生活用水を自分たちで用意しなければならない環境に身を置くと、とにかく今ある水の備蓄を減らしたくない、水の消費を出来るだけ抑えたいという意識が常に働いているので、事あるごとに「また水を使わなければいけない」と毎回感じてしまう。朝起きて体を洗う時の水、トイレを流す水、野菜・果物を洗う水、ご飯を食べた後食器を洗う水、手を洗う水、洗濯をする水、歯磨きをするための水…飲用水はまた別に購入しているが、これ以上水のありがたみを痛感できる場はない。(これが水場まで何十分も何時間もかかる道を往復しなければならない環境にある人達はもっと水の使い方・ありがたみを知っているので、これ以上という表現は当てはまらないかもしれないが…。)
更に気づいたことは、水道を使っていると「自分がどれほどの水を消費しているのか」ということを目にすることはできない。例えば水を出しながら手を洗うのと、洗面器に半分水をためてから手を洗うのでは、どちらが水を多く使うか?蛇口をひねっていつものように水を出しながら、手を洗うその下に洗面器を置いて、可視化して見てみると一目瞭然だ。そして、本当は小さな洗面器に半分の水で私たちは十分に手を洗うことが出来る。
朝、バケツに水を汲んで頭と身体を洗う場面でも、自分の水の消費量は一目瞭然だ。慣れてきて感じることは日本でシャワーを出しながら頭を洗うのに「当然」必要だと感じていた水の量は全くもって「当然」ではなかったということ。とりたててシャワーを無駄使いするということがなくても、今考えると何と勿体ない、湯水のような使い方をしていたことかと思う。コンゴに到着して間もない頃、大きめのバケツ一杯に用意された水を見て、「こんな量で頭と体を洗えるはずがない」と感じていた私。実際、その頃はまだ日本にいる時のようにバシャバシャと水を余計に使う感覚が抜けておらず、頭を洗った後、バケツをお代わりして体を洗っていた。今は毎朝、バケツ一杯で充分に気持ちよく全身を洗えるようになったので、我ながら適応したものだと感じる。
我が家に手洗い場がやってきた!
生活の中で水を必要とする場面のうち、私が一番難儀に感じていたのが「手洗い」だった。これは1日何度も何度も必要になるもので、そして、自分だけではなく、子供達も手を洗わなければならない。そうすると、午前中だけでもざっと10回ほど、トイレの後、食事やおやつの前後などでその場面がやってくる。水道のない我が家ではどうしていたかと言うと、いちいち備蓄の大バケツから少量の水をカップに汲み、水受けバケツの上でその水をちょろちょろ流しながら手を洗っていた。長女も次女も、日本ではもう手洗いは自立していたので、毎回毎回これを手伝わなければならないのがひどく手間に感じられて仕方がない。それでもこの衛生状態の決して良くない環境において、手洗いは日本以上に重要に感じられたので、数週間の間、私はせっせと日に何十回と、手洗いの補助に勤しんでいた。
水道がない環境の我が家は決して例外ではないはず。こんな家がきっとコンゴでは大多数を占めるのだろう。それにしても、水道を引くのが難しいのであれば、どうして代替になるようなものを考え付かないのだろうか。私は頭の中で簡易の手洗い設備を思い描いていた。低めの台の上に開閉できるコックのついたタンクを置いて、その下に水受けのバケツを置いてしまえば、立派な手洗い場になる。次に日本に帰ったら、コック付きタンクか、あるいはこちらの容器の口に合うコックさえ探せればそれを持ち帰ろう。
そんなことを考えていたある日、道を歩いていたら薬局の前で、まさに私が思い描いていた手洗い場に遭遇した。(正確には私がシンプルに思い描いていたよりも、その備品はもう少し洗練されていて、コックのついたタンクと水受けのバケツが設置できる台が備わっていた。)「これ!こんなの買いたい!これってどこで売ってるの?」すぐさま、隣を歩いていたNANAに詰め寄り、数日後、イレールと一緒に「それ」を買いに出かけた。
そして設置された我が家の手洗い場。これがまぁ、快適なことこの上ない。下の水受けにたまった汚水も、トイレを流すタイミングでザバーッと再利用できて気分が良い。汚水とはいえ、中には手洗い石鹸成分が含有されているかと思うと、流すたびトイレも綺麗になるんじゃないかという錯覚さえ覚える。手洗い場のすぐ横の壁にくぎを1本打ち付けて、タオルを吊るしてしまえばもう、それは日本の洗面所と遜色ない素晴らしいファシリティになった。
子供達にも好評で、何やら一人が洗っている背中にもう一人がじっと立っているので、何をしているのかと思ったら「順番の列を並んでいる」と。
1日に必要な最低限の生活用水
少し気になって調べてみると、一日に最低限必要な生活用水の量というのは一人当たり10-20リットルと記されている。(飲料水とは別。災害時に準備する水としては、その水量が目安となる、とのこと。)対して、日本人の平均的な1日の生活用水の使用量は環境省のHPによると、一人当たり200-300リットルにもなるそうだ。
まさに、私がこちらで感じることになった、日本とコンゴでの水の使い方のギャップがここに如実に示されている。日本の感覚からすれば、こちらでの私達の暮らしは毎日が災害時の避難生活のようなものなのかもしれない。けれども、300リットルなどという桁外れな水の量は水道がなければ到底賄ったり消費し切れたりするものではない。そして本当に必要とする量からもかけ離れている。どちらが良い悪いという話ではなくて、改めて、水の大切さを感じて生活していることをこの記事で書いてみたかった。
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